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『デトロイト』――差別が加速させた悪夢のような役割分担

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先週、キャスリン・ビグローの最新作『デトロイト』を観てきた。
デトロイト暴動」が起こった背景から実際の暴動の様子、そして、後半は登場人物たちが拷問に近い執拗な取り調べを受けたといわれる「アルジェ・モーテル事件」を描いた作品だ。

ハート・ロッカー』『ゼロ・ダーク・サーティと、ビグローは9・11以降の「憎悪の連鎖」「アメリカの罪」を、特殊な任務に従事する主人公に徹底的にフォーカスすることによって描いてきた。
僕がビグローの近作に魅力を感じていたのは、その扱うネタの新しさと、先述した主人公の「病のごとく狂気じみた職業倫理」にある。

しかし、『デトロイト』は50年以上前の出来事を、確たる主役不在、つまりやや群像劇のスタイルで描いている。ジョン・ボイエガは一番上にクレジットされているが、『スター・ウォーズ』と違いヒーローにはなれない。力強い個にフォーカスすることによって、フィクション的要素が濃くなることを恐れたのだろう。(ゆえに事件が発生するまでにかなり眠くなったことを付け加えておく……₎

 

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白人警察の黒人への暴行事件は今も後を絶たない。結末含め「アメリカは本質的に何も変わっていない」と考えずにはいられない映画だが、執拗に描かれたアルジェ・モーテル事件のシーンによって、ビグローは人種差別と「病のごとく狂気じみた職業倫理」の相関を描きたかったのかもしれない。

デトロイト』で最も印象に残るのは、ウィル・ポールター扮するレイシストの白人警察官クラウスだ。
どっかの批評家が「ビグローの卓抜さは、トランプ支持層の『幼稚さ』を「童顔」の俳優に形象化したことに集約される」なんていうひどいコメントを発していて驚いたんだけど、確かにちょっとステレオタイプな描かれ方ではある。
クラウスの描かれ方から思い出したのは、「アルジェ・モーテル事件」のシーンは、さながらちょっと前に話題になったドイツ映画『es[エス]』のようだ、ということ。看守と囚人それぞれの役割を演じさせたら人間どうなるか、という実際に行われた実験の顛末を描いた映画である。
暴動最中の緊張状態にあって、「肌の違い」によって役割が固定化され、行為は自己正当化され、積極的にその役回りに没頭していった末の悪夢――差別は種火であり、ブースターである。

クラウスは狡猾で暴力的であるだけではなく、警察官として、彼なりに狂った倫理感の下「取り調べ」をやっているという意識なのである。だが、正当化しようにも銃が見つからず、「取り調べ」は「拷問」の様相を呈すことになる。
他の白人警察官も松竹梅のように極悪度が分かれつつも、次々と暴力に加担する。
フリンは俺たちの街でこんなこと許さねえ」と言い、黒人と一緒にいた白人女性を蔑視し、服を剥ぎ、今にもレイプしそうな勢いだ。

あの状況下で「あれはおもちゃの銃だったんだよ」と主張しても受け入れられる可能性は低かったと思われる。とはいえ「銃は無いんだよ」と言っても状況は見ての通りだったわけで、あそこには退役軍人に最も象徴的だったが、黒人側のプロテストが込められていたのだろうか……。

 

映画の舞台がモータウン時代のデトロイトとあって、挿入される楽曲もいちいち素晴らしいが、やはりエンディングで流れるThe Rootsの曲を取り上げたい。
エリカ・バドゥジョン・レジェンドとフィーチャリングしてきたルーツならではな素晴らしい楽曲に仕上がっている。
ビラルのひたすらカーティス・メイフィールドを彷彿とさせるソウル・パートのある種のノスタルジー、バトンを受け取るブラック・ソートのラップの正しい鋭さ重さ。
「公平じゃない」――当時も今も続く黒人の受難とプロテストが邂逅するかのような名曲だ。

 

es[エス] [DVD]

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Detroit

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